青春なんちゃら2002・中編

その年の8月31日、僕は愛知県の豊田スタジアムに居た。
8月31日といえば小中高の学生にとって夏休み最後の日であるが、
その年、僕の学校は9月3日が始業日だったので遠征を試みたのだった。
当時ヲタの中に知り合いらしい知り合いも居なかったので一人旅だ。
会場に着くとヲタの仲間達が輪を作ってあれやこれやと話していたが、
一人でふらついていた僕はどう見ても地元のモー娘。好きの学生だっただろう。
知らない非日常の土地でコンサという非日常の体験。
これはたまらく僕をわくわくさせた。
以来、18きっぷの季節になるとよく電車で遠出をするようになった。


9月23日。後藤真希モーニング娘。を予定通り卒業した。
その様子はTV東京で中継されていたような気がする。今思えば凄い扱いだ。
翌週あたりのハロモニを見ながら、妹がごっつぁんの居ない娘。は娘。じゃない、
と完全に醒めてしまった様子を見せていたのを覚えている。


タンポポ祭りについても書きたいことがあるがそれだけで長編化しそうなので割愛。


事件は起こった。10月のことだ。
僕はPJで娘。がここにいるぜぇを披露するとのことで、
学校を3時間目でぶっちして家に帰って渋谷に行ったのだ。


当時、僕はある掲示板に書き込みをしていた。
そこでとある人が連番者を募集してたのだが、(PJは1枚のハガキで2人入れる)
僕は彼の「15時には並びたい」という意向に沿って学校を無断早退したのだった。
週末には僕はこの件で職員室に呼び出されたが、
「精神的なだるさから気分がすぐれなくなって家に逃げ帰りたかった」、
などと病人の様な事を言い、結局反省文1枚で済んだ。


事件はまだまだ終わらない。10月の下旬だったか。
僕と先述のM君と今も時折つるんでいるK君とで、
教室でチョーク投げをして教室をめちゃくちゃに汚したことを咎められ、
休日に呼び出しを喰らうことになった。
しかしその日は大阪でスポフェスがあった日だった。
僕はそれを華麗にスルーした。当然親に電話が掛かってきた。
親は僕がどこに行ったかも分からず居ませんと答えただけだったらしい。
その日僕は大阪のミナミにある1泊2kの安宿に泊まった。
4畳の和室で大阪のローカル番組を見ながら僕は何をやっているんだろうと思った。
翌日大阪からそのまま福井へと足を運んだ。
コンサが終わると急に土砂降りの雨が降り出した。
鯖江の駅に着くまでに僕はびしょ濡れになり、
米原へ向かう列車の中で車内の暖で衣服を乾かしながら、
僕はもうこのまま引き返せないのではないかと考えた。
そのまま大垣からMLながらに乗って帰り、戻ってきたのは月曜だった。


その後文化祭が始まったのだったが、僕は準備も文化祭も後片付けもスルーした。
結局土曜の呼び出しをスルーしてからその週は一度も学校へ行かなかったと思う。


その年の5月だったか。クラスメイトにKという一人の男が居た。
こいつは何を思ったか突然自転車で家出をし、愛知県の安城付近で保護された。
結局彼は夏休み明けには学校を辞めた。


担任はもともと温厚な先生だったが、その前例があったこともあってか、
僕のことを非常に心配し、1年の学年主任や生活主任の所に赴いて、
これ以上僕を責めないようにと説得しに行ったようだ。
なぜなら、僕が学校生活に戻ってから何一つ呼び出しを喰らわなかったし、
僕が無断欠席を続けたことに対して彼は何ひとつ言わなかったからだ。


この頃は勢いで学校などやめてしまいたかったし、
やめても大検を取って大学に進学するつもりで居たから特に問題は無かった。
結局、親の大反対にあってしまい通い続けたのだが、
担任の取り計らいのお陰ですんなりと元の生活に戻ることができたことは、
学校をやめるという選択肢を親に塞がれてる以上はこの上ない安心感だった。


その年のヲタ活動はそのまま前橋→子犬ダン試写会(ここではじめてキッズを見る)
と続き、年が明けて冬ハロが始まり(辻加護卒業発表)、
必死でA席を取った中野、横アリ公演と続いていった。


学校での生活も勉強はロクにしなかったし、
友達と町田などの繁華街に繰り出してはゲーセンに入り浸る日々だったが、
高校生らしいといえば高校生らしい日々を送っていた。
そんな高校1年も終わりに近づいた2月のある日、
今となってはどうでも良くなったことだが、
当時の僕と僕たちが胸を痛めた事件がまた一つ起こった。


つづく